絵と人に出逢う
2003年 8月
『生きることに忙しい今日。絵画を心の潤いとして身近にする生活は減って、画廊は厳しいでしょう。』と云うようなことを言われる。改めて現場を見渡してみると、思いの他美術を愛好する方が減っていないことに気付きます。(画廊が厳しいと云う問題は別の要因である事にも……)
『道端の小さな花に目を留めるように、美術を生活の一部にした人達は、回り道をしても花の咲く道を歩こうとしているようでもあります。
『絵空事―と云う表現があります。非現実な象徴としての言葉も、価値観の多様化した現代の実生活は、非現実という言葉が絵空事化しているのでしょう。
『大人の教養とゆとりの象徴である絵画とは、どの様にして出逢うのでしょう。おきまりの新築祝いや改築記念、結婚祝もよろしいですが、私はもっと身近な、もっと気軽なものとしての出逢いであってほ しいと考えます。
『子供の頃、両親に連れられて行った海岸で拾った貝殻、山で拾った石ころひとつに大切な思い出が詰まっていたことを思い出します。
『大人になってしまった私達は、写真と云う直接的な記録も貴重ですが、結婚記念日、子供の入学や仕事の節目など、個人的な記念にひとつひとつ自分の好みの絵画を入手する……。と云うのは如何でしょうか。
『時が経ち振り返る時、それはあたかも絵日記の様にその日、その時々の思い出が甦ります。家族と共有する壁の思い出は、子供の旅立ちに家宝を譲る儀式へと継がれていき、家族の思い出へと成長するのです。
『美術品に新品、中古品はありません。また価値観は時代を投影したもので、高価であろうがなかろうが、絶対の評価を決めるものではなく、いつも時代の中にあり輝きを持つものです。同時に他人(作家)の絵画を所蔵すると云うことは、ひとりの作家を応援するともいえ、大儀として時代の美術を養護することにもなり、社会に対する個人メセナともなります。
『歴史上の遺産とも云える美術作品とのめぐりあいは、貴方の人生の必然的出逢いとなり、真に豊かに生きる仲間を得ることになるでしょう。
蔵丘洞画廊主人敬白