京都 蔵丘洞画廊

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京都ちょっとご紹介

法華宗 大本山 本能寺蔵丘洞すぐ裏

当画廊のすぐ裏にある本能寺。一歩中へ入ると街中にあるとは思えない静かさです。
元々あったのは現在の場所より西にありましたが、創建500年の間で五度の焼失、七度の建立を繰り返し現在に至っています。

6月11.12日は「信長まつり」を開催。
信長はことのほか碁を好んでおり、上洛の際はこの本能寺でたびたび碁会をして楽しんだようです。
おまつり期間は、囲碁大会や信長にゆかりの人物たちが近辺をパレードしたり、イベントが沢山予定。

「本能寺の変」

1582(天正10)年6月2日 織田信長の腹心であったはずの明智光秀が謀反(むほん)を起こし、信長の宿所の本能寺に火を放ち、信長が炎の中で自刀。境内には信長公の墓所がひっそりとたたずむ。

その前日6月1日信長は、昼間公家、町衆40名程招待し、名品38種の茶道具を持参し、御茶会を催し、夕刻には晩餐会、夜には本因坊日海上人と鹿塩利賢の囲碁の御前試合を見て就寝したようです。
宝物展示室には、信長の遺品や桃山時代の工芸品など多数所蔵されており公開。
例えば本能寺の変の前日の大茶会にも使われたとされる「霰(あられ)釜」や、茶碗のほか、「本能寺の変」で焼けた跡の残る茶入れ、森蘭丸の背負い刀、細川晴元が本能寺に送った「鉄砲の礼状」や、信長の署名と花押を記した「屏風の礼状」やなど。(展示内容は変わります)

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ご存知でしょうか・・・
本能寺には江戸時代後期の南画家浦上玉堂と春琴父子のお墓もあるのです。

浦上玉堂(1745~1820)

岡山池田藩の支藩鴨方藩の藩士の家に生まれる。玉堂は江戸勤務となったが、幕府の医官多岐藍渓に琴を習う。玉堂という号は、手に入れた中国製の七絃琴の銘“玉堂清韻”によって玉堂琴士と号したのに由来。
妻と死別し、1794年(寛政6)に春琴・秋答という2人の子息を伴い、城崎温泉に遊び、脱藩して琴を抱え放浪する。画家としての玉堂は、池大雅と並び称されるほどの優れた南画家だったが、誰に学んだかは明らかでない。残っている作品は60歳以後のものが多く、すべて水墨。
リズミカルな筆致と繊細な渇筆とを駆使し、自然の深みや重みを画面に描く。


もちろん玉堂の軸も宝物殿に所蔵されてます。

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本能寺の門を出ると寺町通り。この通りにはいろんなお店が立ち並んでいます。
本能寺界隈のお薦めのお店をご紹介します。

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